解決のヒントをくれるのはこの人!
京都大学では、総合大学のポテンシャルを活かすべく、分野横断的な教育や研究プロジェクトの促進を目的とする組織があります。それが学際融合教育研究推進センター。このセンターでは、学際的な教育や研究グループを「ユニット」と称し、現在(2019年1月)34のユニットがそれぞれの活動を進めています。その他、毎月開催している「異分野交流会」や、「学際研究着想コンテスト」など、越境を促す様々な事業を展開しています。そのセンターの専任教員である宮野准教授にお話を伺いました。
学際研究ができる状況でなくなってきたから学際が推奨されている
複数の学術分野間を跨ぐ研究である「学際研究」ですが、この言葉を学部や修士学生は聞き慣れないようですし、大学の外に出てみればほとんど聞かれません。でも、研究者になって、研究費の公募だとか情報収集をし始めてみると、今「学際研究」という言葉はものすごく頻繁に使われていることに気づかされます。この状況についてどう思われますか。
宮野:まず、学際研究が重要!と騒ぐような今の状況は、本来の学問のあり方から考えるとおかしな状況だと思っています。僕は思うのですが、研究者として本当にやりたいこと、知りたいことって、きっと一つの分野に留まらないんですよ。どんな専門領域であろうが正しくそして深く突き詰めていくなら、必ず他分野と接触することになるんです。例えば、物質そのものを明らかにしようした研究の突き詰めた先の一つが「超ひも理論」になるわけですよね。でも、それって理論であって物質じゃないですよね。物質とは何か?を考えていたのに、結果的に理論、すなわち法則だってことになっています。これってどういうことでしょうね。この場合は、やはり哲学の出番かと思います。このように、問いが深まるほど、一つの分野、方法では足りないのだと思います。これは極端な例ですが、環境問題等の一般的な課題を取り上げても、その解決には技術的、経済的等の観点が必要なことは言うまでもありません。
つきつめると、研究者が自身の「問い」に誠実になってみれば、その問い、テーマがどの分野のものとか、学際的だとか、それはどうでもいいことです。専門っていうものは、少し考えると、そんなものはないということに気づくと思います。あくまで政治的、制度的なラベル付けでしかない。分野に固執するのは本質を突き詰めることと正反対だと言っていいとおもいます。それを確固たるものだと勘違いしていることが、現状の様々な学術界における不都合の元凶の一つでしょう。「専門」など、壊すものであって守るものではない。夏目漱石やベルクソンなど、大勢の偉人が、そう言っていますよね。理系、文系、と言った区別は、あくまで便宜上のものなんです。
分野を特定できないことが研究や学問の本来の特徴であるのに、今あえて「学際」というのはどうしてなのでしょうか。
宮野:それは、「研究の進展というものは、新たな研究分野の確立である」とした考えのもとで、どんどん学術分野が増えていき、最近になってその弊害が目立つようになってきたからです。その学術分野が増えた理由は3つあると思っています。
一つ目は専門主義。厳密に説明しようとすればするほど環境条件が狭まるという話です。例えば「アメリカ人と日本人の幸福感の比較」を調べようとすると、”日本人”とはどんな日本人?都会に住んでいる人?都会か田舎かかで幸福感は違うのは?それに、生まれた年代によっても違うのでは? といった話になるでしょう。つまり、なにかしら正確なことを主張しようするとどんどん条件が細かくなり、結果、条件の分だけ個数が増えるというわけです。
二つ目は論文主義。論文は常に新しいことを書かなくてはいけないでしょう? 本当はそれもちょっとおかしな話で、昔はそうでもなかったんですけどね。最近はまた増えてきたそうですが、昔は論文誌には反論論文がよく掲載されていたそうで、その分野の研究ってのはそのコミュニティで育てるものだと思っていたようです。でも今は違ってて、ある事象や問題についてみんなで意見をいいあうというのはあまりみられなくなり、とにかくみんな自分の論文を掲載したいのです。結果、「なにかしら新しいことを提案する」ことが良いとされ、どんどん細かな分野が増えることになります。
三つ目は相対主義。ナンバーワンよりオンリーワンがいい、他人さまのことは知りません、というのがいいというのが世の中になっている。そのために、専門主義や論文主義を助長してしまっているんです。
学際研究を阻害する要因をどう乗り越えるか
学問の本来の姿である学際研究を阻害するその3つの要因はどうやったら乗り越えられるのでしょうか。
宮野:先にも話しましたが、今一度、自分自身の問いを見つめ直し、その問いに正直に、誠実に向き合うことしかないと思います。研究者になろうと決意した志を思い出すというか、論文にしやすい研究をするのではなく、自身の知りたいこと、突き詰めたいことをやろう。それだけのように思います。大学での研究とは、本来、「やろう」とおもってするものではなく、「やってしまう」ものなのですから。
若い研究者はポストも見つけなくてはいけないし、そのためには論文を書かなくてはいけないし、この状況に抗うことを具体的に考えると難しい気がします。
宮野:抗うというより、「己の問い」に誠実になりましょう、ということです。たかだか数十年しかない研究生活で、やりたくないことやってどうするのだろう。そこまでして何を得たいのだろう。なにゆえの研究人生だろう。もちろん食っていくことは大事ですよ。でも、何のための食うのか。研究者たるものそうでないと、ブームはつくれても歴史は作れない。常識を疑うという営みはそのくらい覚悟がいるものと思うんですけどね。京都大学だからこそ、いわゆる「サラリーマン研究者」になってはいけないと世間様に発言できると思うんです。
では、その「己の問い」に誠実になるためにどうすればよいか。私は答えを持っていないけど、一人一人が少しずつ自覚して、勇気をもって変わっていくしかないと思っています。反対に、論文の数で勝負するなら、腹をくくって愚痴を言わずに頑張ればいいと思います。論文の本数が研究能力とイコールとみられがちな現状に対して「それはおかしい、論文は数じゃない」と言いながらも、一生懸命論文を執筆するような二枚舌のような態度では自分自身に嘘をつくことになりますし、それでは学術界全体がよくなるわけがありません。なお、今の論文生産能力が研究者の主たる評価指標であることは、ものの10年も立たないうちに変化して、それほど重要視されなくなると、僕は思っています。もうその物差しでは上手くいかないってことは、大学人にも霞が関にも自明のことですからね。論文を書いていればいいという時代はもう終わってると思います。
異分野連携と異分野融合
学際研究と言っても、先生の著書では、異分野連携と異分野融合を明確に区別しておられます。そのあたりをご説明いただけますか。
宮野:異分野連携と異分野融合というのは全く別物なのですが、学際研究という言葉のもと、現状としてはごっちゃになっているとおもっています。異分野「連携」は、多数の分野がそれぞれの範疇において共通の目標を達成しようとすること。チームビルディングみたいな感じです。そのプロジェクトが終われば解散。他方の異分野「融合」は、いうなら個々人の内面的な成長のことです。他の分野と対話することは、自分と異なる研究観、世界観と触れることになる。なるほど、そういう見方、考え方もあるのか・・・という気づきは、自身の専門分野の囚われから解放することとなり、同時に新たに自身の専門観を再構築することになるでしょう。ゆえに、異分野融合とは言うなら研究者の成熟、成長といえるものです。
学際研究が必要になる科学研究費補助金の基盤Sなど大型研究では、意図しないにせよ結果的に異分野連携になることが多いように思います。チームビルディングによる共同研究プロジェクトで異分野融合を起こすのは難しいのでしょうか。
宮野:チームビルディングで異分野融合が起こるケースもありますし、別に異分野連携が悪いとかいっているのではありませんよ。自分の責任の持てる範囲であっても、共同研究を一緒にやっている他の研究者の世界観を知りたいと思う気持ちで取り組むこともできます。ただ、自分たちが何にたいして何をしているのか、何をしていることになっているのか、ということには自覚的でないといけません。
( 聞き手 仲野安紗 )